日本史上の偉人として絶大な知名度を誇る西郷隆盛ですが、「西郷隆盛の写真」をめぐっては、教科書やメディアで広く知られている肖像画や銅像と、実際の生前の姿のギャップについて長年多くの議論や疑問が持たれています。「西郷隆盛に写真は本当にないのか?」という疑問は、歴史ファンや一般の関心事としても常に上位に挙げられるテーマです。本記事では、公式な歴史的背景や史料に基づき、西郷隆盛の写真に関する真相、上野恩賜公園の銅像のモデルとなった人物の秘密、そして生前の姿を伝える似顔絵や肖像画にまつわるエピソードを詳しく紐解いていきます。
西郷隆盛に写真は本当にないのか?その歴史的背景と真相

西郷隆盛(文政10年12月7日〈1828年1月23日〉- 明治10年〈1877年〉9月24日)は、幕末から明治初期にかけて薩摩藩の下級藩士から日本を動かす政治家・軍人へと上り詰めた激動の人生を送りました。維新の三傑の一人として数えられる彼ですが、幕末期から明治初期にかけて写真技術が日本に伝来・普及しつつあった時期に生きていたにもかかわらず、「西郷隆盛の写真が1枚もない」と言われるのには明確な歴史的理由があります。
公式な記録や専門家の研究によると、西郷は写真に撮られることを極端に嫌ったと伝えられています。「自分の姿を写し取られると魂が抜かれる」といった当時の迷信的な感覚があったのか、あるいは自身の権力誇示や記録を残すことを好まない質実剛健な性格ゆえなのかは諸説ありますが、生前に撮影されたと確証の持てる写真プレートや焼き付けは発見されていません。一説には、明治の初頭に鹿児島や東京で撮影の機会があったのではないかという噂が流れることもありますが、現時点で学術的に「これが西郷隆盛の生前の写真である」と断定されたものは存在しません。
上野恩賜公園の西郷隆盛像のモデルは誰だったのか?
東京・上野恩賜公園の緑の中に佇む、愛犬を連れた西郷隆盛像は、誰もが一度は目にしたことのある象徴的なモニュメントです。しかし、この銅像が完成・除幕されたのは西郷の死後である明治31年(1898年)のことでした。生前の写真が残されていない中で、彫刻家の高村光雲らがどのようにしてあの見事な銅像を作り上げたのかについては、多くの知られざるドラマがあります。
実は、上野の銅像の顔の部分のモデルとなったのは、西郷本人ではなく、その親族の骨格や遺族の顔立ち、そしてイタリア人絵師エドドアルド・キヨッソネが描いた有名な「南洲翁肖像画」でした。特に、除幕式の際に西郷の妻であるイト(津村)が銅像の顔を見て「うちの人は、こんなお人じゃなかったごたる(こんな人ではなかったようだ)」と語ったというエピソードは非常に有名です。本人の生前を直接知る妻が違和感を覚えたほど、銅像や肖像画は後世のイメージに基づいて再構築されたものだったのです。
キヨッソネの肖像画と西郷隆盛の似顔絵に隠された秘密
西郷隆盛の顔として世界中で最も認知されているのが、お札の原版彫刻なども手掛けたイタリア人の版画家・画家であるエドドアルド・キヨッソネが描いた肖像画です。西郷の死後、明治政府や関係者から「国民的英雄の顔を残さなければならない」という強い要望を受けたキヨッソネは、西郷の生前の写真がない中で、驚くべき手法を用いて肖像画を完成させました。
キヨッソネは、西郷の顔を知る関係者(実弟の西郷従道や、盟友であり写真も多く残っている大久保利通ら)を徹底的に呼び寄せ、彼らの証言や骨格の共通性を緻密に分析しました。薩摩藩士特有の血縁関係にある一族の骨格データを頭の中で重ね合わせ、いわば「西郷一族の平均像」とも言うべき精密な似顔絵・肖像画を創り上げたのです。これが、私たちが今日「西郷隆盛の顔」として思い浮かべる肖像画の真相です。
| 項目 | 詳細・特徴 | 歴史的背景・真相 |
|---|---|---|
| 生前の写真 | 現存せず | 本人が写真嫌いだったことや、撮影の機会を避けたため公式なものは残っていない。 |
| 上野の銅像 | 明治31年(1898年)除幕 | 彫刻家・高村光雲が制作。モデルは本人ではなく、遺族の骨格やキヨッソネの絵画を参考にした。 |
| キヨッソネの肖像画 | 死後に制作された肖像画 | 弟の西郷従道や大久保利通らの顔立ち・骨格の証言を元に合成・推測して描かれた。 |
| 家族・周辺人物 | 大久保利通や島津斉彬など | 大久保利通らは多数の写真が残る一方、西郷のみ写真拒絶により画像が欠落した。 |
大久保利通の写真との対比から見える西郷の思想
西郷隆盛の生涯を語る上で欠かせないのが、盟友でありながらのちに明治政府の中心で袂を分かつことになった大久保利通の存在です。大久保利通に関しては、多くの写真や肖像が現代にまで残されており、凛とした政治家としての姿を今に伝えています。幕末から明治への大転換期において、新しい西洋文明や技術(写真機を含む)を積極的に受け入れ、国家の記録として残そうとした大久保に対し、西郷は終始一貫して個人の名誉や記録を残すことを好まない精神を持ち続けていました。
西南戦争(1877年)で敗れ、鹿児島城下の要害で自刃した西郷の最期に至るまで、その姿はレンズを通じた客観的記録ではなく、人々の記憶や伝聞、そして限られた証言を元にした絵画によって語り継がれることになりました。この「写真が存在しない」という事実そのものが、西郷隆盛という人物のカリスマ性や、権力から一歩引いた孤高の生き様を象徴する要素として、後世の人々のロマンを掻き立てる大きな理由となっています。
【西郷隆盛写真】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:西郷隆盛の写真が1枚もないのは本当ですか?
A1:はい。公式に確認され、学術的に認められた本人の生前の写真は現存していません。撮影技術自体は当時日本にありましたし、親友の大久保利通らは多くの写真を残していますが、西郷本人が写真を嫌ったことなどから1枚も撮影されなかったと伝えられています。
Q2:上野恩賜公園の西郷隆盛像が本人に似ていないと言われるのはなぜですか?
A2:銅像が制作されたのは西郷の死後であり、生前の写真が存在しなかったためです。制作者の高村光雲らは、遺族の証言や骨格、エドドアルド・キヨッソネが描いた肖像画を元に想像で補って制作したため、妻のイト氏をはじめとする身内から「似ていない」という感想が漏れることになりました。
Q3:教科書で見る西郷隆盛の顔はどのようにして描かれたのですか?
A3:イタリア人画家のキヨッソネが、西郷の死後に実弟の西郷従道や大久保利通ら一族・関係者の顔立ちや骨格の証言を徹底的に集め、それらを組み合わせて描き上げた肖像画がベースとなっています。
西郷隆盛の「写真が存在しない」という謎は、単なる歴史上のミステリーに留まらず、彼の生き方そのものを色濃く反映したストーリーです。実態としての写真がないからこそ、キヨッソネの肖像画や上野の銅像、そして数々の錦絵や似顔絵を通じて、人々の心の中で理想の英雄像として膨らみ続けてきました。幕末から明治という激動の時代を駆け抜け、西南戦争に至るまで自らの信念を貫いた西郷隆盛の姿は、デジタル化が進んだ現代の私たちに対しても、記録や情報の本質とは何かを静かに問いかけています。写真という客観的証拠がないからこそ、後世に語り継がれる物語の奥行きが一層深まっていると言えます。