invisible hit counter
ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 登山家・栗城史多のエベレスト単独無酸素挑戦の軌跡と悲劇の真相

登山家・栗城史多のエベレスト単独無酸素挑戦の軌跡と悲劇の真相

若月 陽菜 若月 陽菜 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
目次

登山家として「冒険の共有」を掲げ、インターネット生中継を交えながらエベレストをはじめとする数々の高所登山に挑んだ栗城史多。彼の挑戦は、従来の閉ざされたアルピニズムのあり方に一石を投じる一方で、メディアや登山界から賛否両論の評価を受けました。そして2018年5月、8度目の挑戦となったエベレスト登山において悲劇的な最期を迎え、35歳という若さでこの世を去りました。

本記事では、栗城史多が遺した軌跡や、エベレスト単独無酸素挑戦の背景にあった事実を、公的記録や客観的なデータに基づいて徹底的に解説します。数々の過酷な挑戦の歴史や、生前の功績、そして語り継がれるべき教訓に迫ります。

登山家・栗城史多のプロフィールと「冒険の共有」という原点

栗城史多

栗城史多(くりき のぶかず)は、1982年6月9日に北海道瀬棚郡今金町で生まれました。札幌国際大学人文社会学部社会学科を卒業後、本格的な登山活動を開始します。彼は単に山頂を目指すだけの従来の登山スタイルにとどまらず、「冒険の共有」をテーマに掲げました。

当時としては革新的だったインターネット生中継システムを活用し、過酷なヒマラヤの山頂付近からリアルタイムで山の映像や自身の言葉を日本国内へ届ける試みを行いました。この独自のスタイルは、多くの一般層や若者に冒険の臨場感を伝えることに成功し、大きな話題を呼びました。2011年9月からは吉本興業系の芸能事務所であるよしもとクリエイティブ・エージェンシーと業務提携し、タレント・文化人としての側面も持ちながら活動の幅を広げました。

エベレスト挑戦の全軌跡:8度におよぶ苦闘と過酷な試練

栗城史多のエベレスト挑戦は、常に高い注目を集めると同時に、その手法や実力について国内外の登山家から厳しい目が向けられていました。彼は「単独無酸素」を標榜し、シェルパのサポートを最小限に抑えたスタイルでの登頂にこだわり続けました。

2009年のチベット側からの初挑戦を皮切りに、ネパール側や西稜ルートなど、ルートを変えながら幾度も高みへと挑みましたが、8,000mを超えるデスゾーンの壁や悪天候に阻まれ、敗退を繰り返しました。特に大きな転換点となったのは、2012年の4度目の挑戦でした。西稜ルートからの登頂断念後、下山中に強風と低温にさらされたことで重度の凍傷を負い、のちに右手親指以外の指9本を第二関節まで切断するという過酷な代償を支払うことになりました。

指を失うという致命的なハンデを負いながらも、彼はリハビリを経て再びヒマラヤの山々へ復帰。2015年、2016年、2017年と毎年のようにエベレストへの挑戦を続け、不屈の闘志を示す一方で、その無謀さを危惧する声も絶えませんでした。

【データ一覧】栗城史多のエベレスト挑戦の歴史と主な出来事

栗城史多が挑んだエベレスト挑戦の変遷や、各年の状況を整理すると、その軌跡が明確になります。

時期・回数 挑戦ルート / スタイル 主な出来事・結果
2009年(1度目) チベット側 / 単独無酸素 初の挑戦。インターネット生中継を試みるも高所順応に苦しみ敗退。
2010年(2度目) ネパール側 / 単独無酸素 南東稜ルートからの登頂を目指すが悪天候により断念。
2011年(3度目) ネパール側 / 単独無酸素 中継機材のトラブルや体調不良が重なり登頂ならず。
2012年(4度目) 西稜ルート / 単独無酸素 強風により敗退。下山中の凍傷によりのちに右手親指以外の指9本を切断。
2015年~2017年 ネパール側 / 単独無酸素(5〜7度目) 指の欠損というハンデを乗り越えて復帰。天候不良や体調悪化で毎度敗退。
2018年5月(8度目) ネパール側 / 単独無酸素 体調不良により登頂を断念。下山中の5月21日、キャンプ3付近から滑落死(35歳没)。

生前の功績と講演活動:社会に与えた影響と賛否両論の背景

栗城史多の活動の本質は、登山そのものだけでなく、全国で行われた膨大な講演活動にありました。「否定しない生き方」や「夢に向かって挑戦し続ける姿勢」をテーマにした講演は、ビジネスパーソンや学生など幅広い層から支持を集めました。

一方で、プロのアルピニストや登山界の有識者からは、トレーニング量や高所登山の技術的習熟度に対する懸念、そしてメディアを使ったパフォーマンス的な側面に疑問の声が上がっていたことも事実です。「単独無酸素」の定義や、生中継を優先するあまり安全管理が軽視されているのではないかという批判は、生前から常に付きまとっていました。しかし、批判を恐れず自分のスタイルを貫き通した彼の姿勢は、挑戦の美しさとリスクの大きさを同時に社会に突きつける存在でした。

2018年5月21日の悲劇:8度目の挑戦と最期の瞬間

2018年5月、栗城史多は自身8度目となるエベレスト挑戦を敢行しました。過去の敗戦や指のハンデを乗り越え、悲願の登頂に向けてネパール側のルートを進みました。

しかし、登頂を目前にした最終局面で激しい体調不良に襲われ、前進が困難な状態に陥りました。彼は自身の判断で登頂を断念し、下山を開始しました。報道各社の記録や関係者の証言によると、下山途中のキャンプ3付近において、彼は何らかの理由で滑落し、帰らぬ人となりました。享年35。挑戦の途中で命を落としたという結末は、応援していたファンや関係者だけでなく、日本社会全体に大きな衝撃と深い悲しみをもたらしました。

【栗城史多】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:栗城史多が指を切断した原因は何ですか?
A1:2012年にエベレストの西稜ルートから4度目の挑戦を行った際、強風と極度の低温にさらされて重度の凍傷を負い、のちに右手親指以外の指9本を第二関節まで切断しました。

Q2:栗城史多のエベレスト挑戦は何回目まで行われましたか?
A2:2009年から2018年にかけて計8回挑戦が行われましたが、すべての回で登頂は叶わず、8度目の下山中に滑落事故で亡くなりました。

Q3:栗城史多が提唱した「冒険の共有」とはどのようなものですか?
A3:過酷な高所登山の様子をインターネットの生中継を通じてリアルタイムで日本国内へ届け、挑戦する姿を多くの人々と分かち合うという独自の活動スタイルです。

栗城史多は、従来の登山家の枠組みにとらわれず、メディアとインターネットを駆使して「冒険」を大衆に開いた異色の表現者であり登山家でした。そのアプローチには賛否両論があり、8度の挑戦のすべてが敗退に終わり、最後は命を落とすという悲劇的な結末を迎えたことは否定しようのない事実です。

しかし、過酷な自然の脅威に単身で立ち向かい、指を失ってもなお夢を追い続けたその強烈な生き様は、今なお多くの人々の記憶に刻まれています。彼の軌跡は、挑戦することの尊さと、自然の前における人間の限界や安全管理の重要性を後世に伝える重要な教訓となっています。

同じカテゴリの記事

若月 陽菜

芸能取材11年。事務所の公式リリースと番組公式サイトを一次情報として照合し、裏付けの取れない話は記事にしません。

おすすめの関連記事